2006年7月
2006.7.31

結構モノ言う批評家の文を読んだあとだからか、自分の日記を読み返してみると結構「削除」モノが多いなぁ。
こんなの○△青年会に見られたら・・。
こんなの○□さんが読んだら・・。
・・
いっぱいあるなぁ。
面倒だから削除しないけど、話半分としておいていただきたい。(今日は疲れてるので弱気)
そういえば若い頃はよく徹夜で議論して「yakara君それを外部で言うと刺されるよ」と言われたなぁ。
でも自分の意見と違う事を言われただけで傷ついたり恨んだり、というのではあまりにもつまらない人ではないのかな、と思うなぁ。
でも来月から自粛しようかな。(あ、やっぱり弱気)

2006.7.30

tamさんにPAを大幅改造してもらって、さらにこの機会に音色も変えちゃいました。
入力感度を思いきり上げてカップリングコンデンサを思いきり小さくしてローカット。
で、思いきり下品な音が出るようになりました。
これでいつでも胡○青年会や○田青年会や天○青年会やひが○青年会が来てもガーエーできます。(ヲイッ)

うひと月が過ぎようとしているのにまだ風邪の名残(?)があって高い声が出にくいです。
酒のせいもあるでしょうが、歳のせいかな、とも思ったりします。
エイサー節はやはり艶のある若い声がいい。
けれどもCD出してるような民謡歌手の声ではエイサーはできない、とも思います。
私の勘違いかもしれませんが、太鼓のニーシェと張り合えるような思いのこもった声が出ないとどんなにキレイで上手な唄でもエイサーに力がみなぎってこない、と思うのです。

謡の知人が名古屋の沖縄料理店でのライブに行ってこられ、帰り途に立ちよって話を聞かせてくれました。
沖縄民謡の先生のお店なんだそうです。
唄三線はもちろんのこと太鼓も使って素晴らしい民謡を聞かせてくれたそうで、しきりに私に師事することを勧めてくださいます。
「yakaraさんとは全然違うんだよ、yakaraさんの指はまだこうこうでしょ、先生の指はこうこうでとっても無駄が無くていいんだよ。だから自己流じゃなくて早くいい先生についた方がいいと思うよ」
思ったことをズケズケ言う知人に事実を指摘されて一瞬ドキッとしたけれど、確かにそのとおりで誰かに師事するということは大事かもしれない。
指のテクニックに関してはやはり学ぶべき点が多く残されていると思うからだ。
こんな田舎では今すぐ誰かに師事するわけにいかないけれど、せめて練習の時はいろいろ忠告されたことを思い出しながら身につけていこうと思った。

仲順流り」の出だしのコツをちょっとつかんだ。
いろんな青年会のビデオを何百回と見ていたからだろうか、フッと頭の中で掴めた(ような気がした)のだ。
それは(ここだけの話だが)謡の出だしを1/4拍早く出すこと、なのだ。
こうして文字にすると「な〜んだ、そんなことかぁ」とバカにされるかもしれないけれど・・、とても大事なポイントを手に入れたと自分では嬉しいのだ。

ハさんにある批評家の文を借りて読んでいる。
数十年も前の音楽関係の雑誌記事なのだが、演奏家に対して辛辣な批評がおもしろい。
批評をするということは外見的には相手を「こき下ろす」作業なのだが、実は対象を揉むことでより良くなって欲しいそして自分たちも良くなっていきたいという真剣な思いが隠されているのだ。
だから悪意に充ちたこき下ろしで対象を圧殺してしまう批評などは批評とはいえない。
明治の時代だと与謝野晶子、自分の弟が戦争に駆り出されるのにどうして天皇は戦場に行かないのか(君死に給うことなかれ)という意見を公刊誌に掲載しているし、社会も意見の相違はあっても違う意見があることを是としていた。
つまりそれだけ社会が健全だったといえるのだ。
批評を避ける風潮はいつ頃から社会にまん延してしまったのだろう。
ほんの三、四十年ほど前までは様々な専門誌で批評が飛び交い、熱い論争が繰り広げられていたことを覚えている。
それがいつの間にか批評が消え、良い事ばかりあげつらうエセ評論家ばかりが台頭する世の中になってしまった。
批評される側は風圧に耐えられずまた耐えようともせず、批評する側は反証や理論だての面倒さから逃げ、どちらもものごとに真剣に取り組まず、ぬくぬくなあなあと下司な馴れ合いの世界で生きている。
いや生きてなどいず、ただ生きているふりをしているだけだ。
これは社会が病んでいる証しだと思うのだが。

2006.7.23

国際交流協会「やたいむら」、去年に続いて二度目の出演です。

天気予報ではほぼ100%雨。
雨天時は中止させていただくことは主催者側と前もって話し合っておいたわけですが・・それが降りそうで降らない。
他のご当地太鼓さんは早々にキャンセルしたらしい。
かなり迷ったけれど我々はギリギリまで準備をして待つことにしました。
白山からもでーきさんとしんちゃんが応援に来てくれました。

 各国のやたいには珍しい食べ物がいっぱい。

 簡単に打ち合わせをします。


我々の出番直前になってサーーッと雨が・・誰だぁ日頃の行いがよくない者ぁ(笑)
それでも観客は見てくれています。

ここまで来るともう後にはひけません。
やるぞっっ、みんなの気持ちがひとつになりました。
英語で「八部衆」の紹介されたのはなんだか「全島」に出たみたい(あくまでも"みたい"ですからね)でちょっと嬉しかったりしました。

 ステージ上の地謡と締太鼓は濡れないのですが・・。

 大太鼓はモロ、ベタベタ。

Photo by tam & ハッタラー

2006.7.18

今夜は8時から市民活動センターで演舞の予定。
「民謡北から南から」として民謡コーラスのグループと八重山民謡のあっこさんの三グループで活動団体アピールをしようという企画です。
エイサーとしては地謡2太鼓4の予定で三者と司会役で進行をふた月ほど前から念入りに準備してきました。
が・・。
当日、太鼓Aから「緊急の会議がはいって行けないかもしれない」。
太鼓Bから「急な残業で間に合わないかもしれない」と連絡が入る。
うわぁー大変だぁ、太鼓2になっちゃったよう。
念のため太鼓Cに電話を入れると、「今日は家の事情でちょっと無理っすね」。
ええっっ!!! 締太鼓1ぢゃん、1、一、壱!!!。
本番まであと一時間半、こんなピンチは「八部衆」にとって初めてのことです。
(ど〜〜しよう)
地謡1にしてオイラが太鼓にまわるか・・。(しかし最近まったく練習してないしなぁ)
キハさんもハッタラーも一緒に心配してくれている、が太鼓だけはどうしようもない。
いっそのこと太鼓なしで全員でエイサー節謡うか・・。
よしそうしようと決心した時、太鼓Dが 「ボク一人でも踊りますよ」。
うーむ太鼓1のエイサーってか、それでもエイサーかよ、これでもエイサーと言ってしまえばそういうことかもしれないなー。(かなり無理があるけど)
ここまでくるとマージャンでパイを切るときの心境に近いものがある。
(これは通らないわなぁ → でもうまくいけば通るかもしれん → いや通るだろう → きっと通る → 通してみせる)
などとわけのわからない心境に至るのである。
一人でも踊ると言ってくれた太鼓Dの自信たっぷりさに安心して「よし、じゃあ太鼓1でいこう」と決定した。
トイレに駆け込んで太鼓1になってしまった言い訳とお詫びを考える。
個室でブツブツ独り言が聞こえたらわたくしです。
スタッフには事情を話して無理に進行表を書き換えてもらう。
予定では会場の外で踊る予定だったのだが太鼓1なので急遽ステージに変えてもらってリハ。

 太鼓1でリハ

リハが終わった頃、突然太鼓Aが現れた。
「おおっ、来てくれたか」(救世主のように光り輝いて見えた太鼓A☆)
太鼓が2になったので立ち位置修正。
まもなく本番という時、太鼓Bも息を切らしながら登場。
「おおっ、よく来てくれた」(救世主太鼓B☆)
太鼓が3になったのでまたスタッフに無理を言って、いったん変更した進行表を元に戻してもらう。

 司会進行のKさん

これで当初の予定通り外で演舞できることになった。(ホッ)
着替えてすぐ本番なのでリハはなし、でもみんな普段練習を積んでいるので全く問題はない。(頼もしいよう(涙))
結局来られなかった太鼓Cも家でかなり心配してくれていたようだ。
「八部衆」の結束力を実感した一日でした。

2006.7.15

「八部衆」結成三年目の節目の日に念願の「道ジュネー」を実現できました。
また祇園祭のこの日は天候にも恵まれ前年を上回る人出で予想以上の方にエイサーをアピールできました。

● 一回目 【イベント広場】
三年前の今日、「八部衆」はここで産声を上げました。
広場といっても太鼓が二列でせいいっぱいという狭さなので観客は前方後方からのみ。
それでも幾重にも人垣ができるくらい集まってくださいました。
マイクセッティングなどに手間取りあたふたと始まったので意識がついていけず、かなり指を間違うものだなぁ・・という印象しか覚えていません。

「倭人」もついに・・。

 音合ってますか?

 

 
マイクケーブルはこんがらがるので一本ずつまとめましょう

● 二回目 【イベント広場前の通り】
本来は老松園前か交差点でやるつもりでいたのですが、あまりの人出でとても無理。
こういうこともあろうかとチラシには明記しませんでした、正解。
時間はおしてくるし、どーーしようかなぁ・・と思ってたらフッと人通りが途絶えたので、ここぞとばかりPAを設置して強行。
車道の半分を使って演舞し、その場の判断でカチャーシーも入れました。
始まる直前に女性がひとり「エイサーどこでやるの?、本部席で聞いたら知らないって言われて・・」。
そりゃそうだ、本部席というのはは三社神輿の本部なんだからこちらのことなど知るわけはない。
けれどもお客さんから見れば神輿であろうがエイサーであろうが同じこと、この辺は見る側の気持ちにたって改良すべき点だと思います。
でもエイサーを目当てに来て下さるなんて嬉しいじゃないですか、ますます気を引き締めて演舞すべし、です。
移動中もすれ違った子供が「あ、エイサーまつさかはちぶしゅう!!」って、なんで知ってんのー・・です。

● 三回目 【平生町商店街】
ここは道路いっぱい使って「道ジュネー」ができるよう念入りに手筈を整えたところです。
イベントの一環としてでなく
「道ジュネー」のためだけに確保した場所です。
着いてみれば愛宕町の神輿はもう舞い込みも終わって待ちくたびれた感。
こちらとしても演舞の間ろくに休みもとらず駆けつけたわけだが、もう待てない風にせかされて演舞開始。
わーん、これでも予定より10分は早く来たんだよ〜。
だから打ち合わせの時に神輿が先に終わったら待たずに先に進めておいて、って話し合ったじゃないの〜・・。
ま、むこうはむこうで司会進行役がいて、好意でエイサーを紹介したかったわけなので仕方ないですね。
記念すべき初の「道ジュネー」、練習もロクにできてなかったのでもう少しじっくり打ち合わせしたかったのだが、司会がドーゾーって始めてしまったから仕方ない。

そこは本番に強い「八部衆」、なんとでも料理してやるという意気込みだけでスタート。
太鼓は太鼓同士で相談し合って位置決めしてくれていて頼もしい。
その頼もしさどおり胸を張って堂々とした入場はやはりかっこいい。

行進は「栴檀木」の謡持ち。
この辺りかと思われるところで「栴檀木」の謡に入る。
♪ いちぐ みちやしが くぬかどぅにきらに・・
実は密かに今日というハレの日に最高の謡を聞かせてやろうと(あ、生意気〜)意気込んでいたのだ。
けれど風邪の後遺症で声がのびない、ちょっと残念。

終了後「桔梗屋」さんの前で懇親会を開いて下さいました。
その後元気屋に戻って簡単な打ち上げをしました。

Photo by tam & キハ

2006.7.14

いよいよ明日は祇園祭り本番だというのにまだ「七」が出ない。
尊敬すべき内科医に再び駆け込んでなんとしても今日中に咳を止めて欲しいと懇願(恫喝ではなくて懇願ですから)。
血液検査のデータを見て、これ以上ないという薬を数種出してくれました。
飲んでみたらなんのことはない「ブロン液の濃いの」でした。
ヲイっ(!)

イスラエルがレバノンを空
いきなり隣国の空港を爆撃したりしていいものなの???

自分も死ぬ覚悟で腹に爆弾巻いてユダヤ人を爆死させる行為は「テロ」といってまるで犯人扱いなのに。
戦闘機でパレスチナ人を爆撃することには誰も何も言わない・・ように見えるのはどうしてだろう。

2006.7.13

咳が止まらなくて昨夜はとうとう一晩中眠れませんでした。
こんな時「あのヤブ医者め〜、薬が全然効かないじゃんかぁ」と逆恨みするのが私の癖です。(ヲイッ)
血液データ見ながら偉そうに処方された薬が四五日経っても全然効いてこない、となれば「これなら自然治癒と同んなじじゃんかぁ」と文句の一つも言いたくなるんです。
ここ一週間ほどあんまり寝てないですからね、身体も心もギスギス(ギラギラじゃないすよ)してます。
・・で、いつ寝てるのか、って?
そんなの決まってますよ、暇な店の中ですっ。

2006.7.12

風邪をひいて一週間になろうというのにまだ喉痛と咳が止まりません。
ここ一週間毎夜30分〜1時間おきに激しい咳で眠れません。
店もずっと休業状態。
商店街の会議もとても行ける状態じゃなくすべて欠席。
病院の薬って本当に効くのかしら、とこういう時思ってしまいます。
いやね、身体ももう動かせるのですけれど、周りの人にうつすのが嫌でしょ。
それで、今夜の練習も自ら隔離されております。

2006.7.9

2,3年ぶりに熱風邪をひきました。
雨の中でハムスターを埋葬していたのがいけなかったようです。
水曜に熱が出て木曜には下がったのだけれど、今度はノドをやられて声が出ない。
金土と休めば直るだろうと思い切って店休んでジキニン飲んで寝てた、けどいっこうによくならない。
そしてついに本番当日、声がかすれてしゃべるのもつらいという最悪の状態に。
困った。
微熱もあって頭も重くなにかにつけ愚痴っぽくなる。
結成3年目にもなってこんな時「僕がやりますよ」と言ってくれる頼もしいメンバーを育てられなかった自分が情けない。
そして案の定本番でミス。
キハさんが助けてくれたのと太鼓連の機転で止まらずに済んだけれど、本番でこんなに重大なミスをしたのは初めてなのでショックは大きい。
目の前が暗くなるというのを実感。
それにしても喉が痛くて苦しい。
自分の前と右隣のオカちゃんにマイクがあるので曲の途中で何度も咳が込み上げてくると左に除けてせき込むことになる。
左のキハさんごめんなさい、風邪うつしちゃったかなぁ・・、ボクの風邪ならもらってくれる?(オイッ)
そんなこんなで一刻も早く帰って横になりたいというさんざんな一日でした。

2006.7.4

飼っていたハムスターが死にました。
三四日前から急に食欲がなくなり、夏バテかなぁと思ってたんですけど様子がおかしいので動物病院に連れて行きました。
元々腎臓の弱い子だったようで応急処置で注射を打ってもらったのですがやはり無理でした。
明日少しのエサと一緒に桜の下に埋めてこようと思います。
やっぱりこういうの悲しいから動物を飼うのは嫌なんですけれど・・。

2006.7.2

tamさんがニュータイプのPA台車を作ってくれました。

 

タイヤを空気入りで径を大きいものにしました。
これで少々の段差も問題なく乗り越えられ、何よりガタガタというひどい振動から開放されて静かにスムースに移動できます。
台車とPA本体をワンタッチのバインド金具で結合しているので簡単に分離できます。
ケーブルや小物を入れる箱、マイクスタンドを3本立てられるホルダーがついています。

みんな子供のようにはしゃぎました。

前面にヘッドライトとvolvoマークを取り付けるだの、国鉄色に塗り分けるだの、エンジンつけるだの、運転席つけてVVVFにするだの・・。
つくりは頑丈でいて重すぎず、さすがtamさんです。ありがとーー☆

年の祇園祭り、いよいよ「八部衆」にとって初めての「道じゅねー」をやろうと思っています。
思えば三年前、わずかなレパートリーから見切り発車のようにスタートし、勢いだけで今日まで突っ走ってきました。
経験を積んだ人から見ても、目の肥えた観客から見ても、人数も少なくてバチ振りも足下も揃っていず、これでエイサーかと思われてきたかもしれない。
けれども現に活動を続けてきてそれなりに実績も積んできたわけで・・。
エイサーの目標は「道じゅねー」にこそあり、などと生意気なことを全国共有掲示板に書き込んだことがあります。
本土のエイサー隊がイベント太鼓に成り下がっているのを見てガマンならず思わず熱くなってのことでした。
今回の「道ジュネー」は祭りのホコ天を一街区借り切って行います。
ですから本来沖縄青年会が行っている本来の「道ジュネー」とはちょっと違うかもしれませんし歩く距離も100m程度です。
でも道いっぱいに広がって誰にも遠慮することなく「歩き」ができるのです。
これが今後の「道ジュネー」への第一歩になると思うとワクワクします。

そして8月20日は成願寺での盆踊り。
この日こそ本物の盆の「道ジュネー」です。
実現にむけて大きな力をくださった倭人の皆さんに感謝です。

前回の練習で「道ジュネー」のために歩きの練習と謡い出しのタイミングを練習してみました。
それが結構難しいのです。
急に自信がなくなってしまいました、orzです。

2006.7.1

朝からオバアの幻覚がひどくて故郷の実家に帰るなどと言ってききません。
半分ヤケになってクルマを走らせました。

90キロほど離れた尾鷲まで走りオバアの母親の墓を見せ、さらに矢の川峠を越えて北山に向いました。
オバアは途中のドライブインで買った「さんま寿司」をうまいうまいと食べています。
子供の頃から親しんできた味なのでしょう。

北山、紀州山地のこんな奥地もオバアの故郷なのです。
大きなダム湖に着きました。
長時間のドライブで尻が痛くなったというのでいったん車イスに移し、座席の座布団の固さを変えてやります。
そのとき私は先日NHKでやっていた「介護心中」というドキュメンタリーを思い出しました。
オバアを車イスに乗せ、目線を低くして語りかけてみました。
「もう、ええか?・・もうええなぁ・・」
私が泣きながら話しかけてもオバアの視線は私に何も応えてくれません。

「ヘタレや、ワシにはできん」
結局300キロも走ってまた帰ってきてしまいました。